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大字名の由来(兵庫町)No10 [氏子地区の紹介]

大字名「兵庫」の由来は、

 大和神社の兵庫のあった所である。
 古代は大社や豪族は弓矢槍刀などの武器を納める兵庫を持っていた。

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 石上神宮の付近においては、内馬場・木堂・三島・守目堂にあぜくらという小字があるが、ここには正倉院のような校倉があったと考えられている。あぜくらは畦に関係の地名かとも疑ってみたが、上の地方以外に見当らないから、先ず校倉のあった地と見てよさそうである。櫟本の西部にも兵庫という所がある。
 他所のことだが神戸市はもと神戸と兵庫と二つの村であったのを合して神戸市となったので、一方の兵庫の名がなくなったかわりに兵庫県という県名をつけたのである。

本資料は、天理市ホームページの大字の由来 参考にしています。

兵庫町の村社(素盞鳴神社)紹介は、こちら

大字名の由来(新泉町)No9 [氏子地区の紹介]

 大字名「新泉」の由来は、

 万葉集の「みてぐらをならよりいでてみづたでのほづみにいたりとあみはるさかてをすぎ……」のほづみはここであるといわれているが、近頃、田原本の東、阪手と南阪手の間にほうづみという小字がありそこであるという新説が出た。
 穂積の語源は刈った穂を積みおく所だといわれ、新泉は新積で、穂積を改めたのだという説があるが、詳しくはわからない。
 古代の穂積氏がこの辺からその西南にわたって勢力を張っていた。

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本資料は、天理市ホームページの大字の由来 参考にしています。

新泉町の村社(素盞鳴神社)紹介は、こちら

大字名の由来(岸田町)No8 [氏子地区の紹介]

大字名「岸田」の由来は、
 古代は田村から岸田の辺りは湖沼であったので岸田というという伝説があるが、川にも岸があるから、沼または川の岸にできた田と解される。
 新撰姓氏録に岸田臣の名も見えるから古い地名である。
岸田と中山から上街道に出た垣内を市場という。ここの市場は十市城のあった頃は盛んであったが、十市城が落ちた時、兵火にかかり、商業地は隣りの柳本の方へ移行した。

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岸田町の村社(稚宮神社)紹介は、こちら

本資料は、天理市ホームページの大字の由来 参考にしています。

大字名の由来(萱生町)No7 [氏子地区の紹介]

大字名「萱生」の由来は、

 萱の生えている地。麻生・瓜生・柳生などと同じ命名法である。村の東北に草山という山がある。この山に限らず、この辺り一帯は古墳地帯であるから一面に萱の生えた所があったので名付けられた。

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萱生町の村社(菅原神社)紹介は、こちら

本資料は、天理市ホームページの大字の由来 参考にしています。

大字名の由来(成願寺町)No6 [氏子地区の紹介]

大字名「成願寺」の由来は、
 中世、成願寺という寺があり、成願寺庄という荘園があった。
 それが村の名になったのである。

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 大和神社の鳥居前から北に大和(おやまと)という垣内があった。大和神社は大和に坐す大国魂の神社であるから、もとの鎮座地の長岡を中心とした地がもとの倭の国である。
 それが今の大和国全体の地名になり、大和朝廷の全国統一とともに全日本の名ともなったが、その名残りを大和神社と共にここの大和にその名を残している。やまとの語源は山戸・山門など20ほどの説があるが、出雲と北九州と大和に多い自称地名で、その他称地名がひのくにであるという説がある。

成願寺町の村社(素盞鳴神社)紹介は、こちら

本資料は、天理市ホームページの大字の由来 参考にしています。

大字名の由来(三昧田町)No5 [氏子地区の紹介]

大字名「三味田」の由来は、

 庄園時代の寺には住僧田・三昧田・修理田・修正田・八講田などという雑役を免じられる除田があった。
 ここの場合はこの西にあった臨済宗の福智堂の三昧田があって、そこに村ができたので村の名になった。
 福住にもさんまい田があり、柳本には三昧講という小字があるが、これは三昧講の田である。今でいえば念仏講田というようなものである。

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三味田町の村社(春日神社)紹介は、こちら

本資料は、天理市ホームページの大字の由来 参考にしています。

大字名の由来(中山町) No4 [氏子地区の紹介]

大字名「中山」の由来は、

 平地へ丘陵の突き出ている地形から来た名である。
 中山中楽寺という奈良朝時代創建の大きな寺のあった地で、中山の名にふさわしく、昔はこの地方の中心の地であった。

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中山町の歯定神社紹介は、こちら

本資料は、天理市ホームページの大字の由来 参考にしています。

大字名の由来(佐保庄町) No3 [氏子地区の紹介]

大字名「佐保庄」の由来は

 継体紀(507~531)に皇太子勾(まがり)の大兄皇子の妃春日姫に匝布(さほ)の屯倉(みやけ)を賜うた記事があるが、どこであろうか。ここは春日の佐保殿庄が、のちに佐保庄と呼ばれることになったというが詳かでない。
 さほという地名も古語で、よくはわからないが、少し小高くなった地形を指すようである。
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(参考) 屯倉(みやけ)とは、ヤマト王権の支配制度の一つ。全国に設置した直轄地を表す語でもあり、のちの地方行政組織の先駆けとも考えられる。

佐保庄町の村社(素盞鳴神社)紹介は、こちら

本資料は、天理市ホームページの大字の由来 参考にしています。

大字名の由来(長柄町) No2 [氏子地区の紹介]

長柄町の名前の由来は、

 神武紀に現われる臍見長柄の丘岬はここであるといわれている。ながらという言葉も古語でわかりにくいが、アイヌ語では、川から丘地へゆく途中の土地、または、よく見える眺望のよい所をさすようである。

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『日本書紀』神武天皇即位前紀己未年2月20日条に見える「臍見長柄丘岬」を当地に比定する説もある(文脈上から御所市名柄町に比定する説もある)。

長柄町の村社(白堤神社)紹介は、こちら

本資料は、天理市ホームページの大字の由来 さんこう参考にしています。

大和神社の氏子地区紹介 No1 [氏子地区の紹介]

大和神社の氏子地区は、神社周辺に散在する長柄町・三昧田町・佐保庄町・萱生町・兵庫町・新泉町・成願寺町・岸田町・中山町の九町である。
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何れも昭和二十九年天理市の市政施行と同時に同市に編入され、現在に至っている。

それ以前は、旧山辺郡朝和村(明治二十二年(1889)十五ヵ村の合併により成立)に属し、各町は村内のひとつの大字であった。
現在も、町全体を称してダイジ(大字)の称が用いられている。
この九町を、「九ヵ大字」又は「大和郷」と総称されています。

次回から、この九町の村社をを順次紹介していきます。

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